1001は自分で買おうと思ってた。
1001は、70年代前後に出回った、スタンダードJAZZ SONG大全集だ。
(コード付きの楽譜)
父の1001は、わたしにとって特別なものだ。
私ごときが、手にする資格なんてないと思うくらい崇高なものだ。
もともと、父はドラマー(白木秀雄さんに師事)だった。
しかし、残念ながら、師匠は自殺してしまう。
父は、これからどうすればいいのか悩んだという。
師匠の死を契機に東京から生まれ育った大阪へ戻った。
トリオで演奏すればギャラが3等分になり
現実的にはリーダーの取り分が多かった。
母と結婚し、私が生まれ
不安定な音楽稼業で、安定的な収入を得るためには
どうすればいいのかを、悩みつづけた。
ドラムは好きだ。でもスタジオミュージシャンとして
引きが多くないと、生活できない。
「ピアノに転向してはどうかね?」
そう、ピアノはsoloで演奏することも可能だった為
喰いっぱくれがない、などと九州出身の某師匠(NHKでピアノ弾いてた人)の
薦めもあり、ドラマーの道から身を引くことにしたのだった。
20歳以降に鍵盤楽器へ転向することは、父にとても辛かったことだと私は思う。
それでも父は、雨の日も風の日も、北新地で
不完全燃焼の気持ちを押し殺して、家族のために働いてくれた。
お金持ちの慇懃無礼な客、さほど音楽がわからないけど
能書きを垂れまくる客、八つ当たりをする客...
酒の相手をする仕事柄、どんどん酒が強くなっていった。
ウィントン・ケリーみたいになりたい。
オスカー・ピーターソンみたいになりたい。
ボビー・ティモンズみたいになりたい。
ホレス・シルバーみたいになりたい。
セロニアス・モンクのカミソリ音を鳴らしたい。
理想の音源は、ハイレベル。
しかし、そこに到達できぬ自分自身にジレンマを覚える。
致命的だったのは、次の出来事だったと私は思う。
九州出身の師匠は、父をレコード屋へ連れていき
店員に頼み、お目当てのレコードを1回かけてもらう。
それから、無言で近くの喫茶店へ走る。
そして、師匠は徐に鞄から五線譜を取り出し
先程の旋律を楽譜に起こしてしまう。
そして、丁寧にコードも振って「ハイ、完了!!!」といって
父に楽譜を手渡してくれるのだった。
師匠の好意が、次第に父を凹まされることになった。
楽譜が欲しいときは買えばいいのだが、
そんな潤沢にお金がない。
でも、耳コピができない。
したがって、師匠に頼まないと
なにもできない父は自分自身に苛立ちを覚える。
しかも、楽譜を正しく読めてなかったという。
本当に、辛かったと思う。
理解できてないことを、理解したフリして
12年間も仕事を続けるなんて。
「死にたい」「死にたい」と
泣きながら、薩摩白波(焼酎)を呑み
夜の出勤時間になっても、玄関へ行って
靴が履けない状況になってしまった。
さらに、靴下さえ自力で履けなくなり
玄関へすら、歩いて行けなくなってしまった。
フローリングには血痕が落ちていた。
小学校から帰ってきた私は、そういう毎日に慣れていき
だんだん、驚かないようになってしまった。
結局、読譜やコード構造と編曲アドリブが思うようにできないことが原因で
鬱病になってしまった。
「奥さん、ご主人は、もう音楽の仕事限界です。仕事変えてあげてください。」
精神科の先生の一言で、北新地のピアノ稼業に幕を下ろした。
わたしが、小学校6年生のときだった。
父の肩に乗っかかっていた
目に見えない、重みが一気に降ろされることになった。
母は、収入減(=ゼロ)になってしまった父を責めることを一切しなかった。
3つも4つも、パートをして
父と私と妹を食べさせてくれた。
父の願いが叶わなかった音楽の仕事。
思い通りの音が出せないために、あきらめて
自営業に方向転換する迄
肌身離さず持っていたもの。それが1001だ。
いろんな悲しみ苦しみをスポンジのように吸い込み
わたしたち家族の生き様を、見つめてきた生き証人。
それが「父の1001」だと思ってる。
それを、母が近日中に探して、私へ引き継いでくれるという。
胸にいろんなものがこみ上げてくる。
脳梗塞になってしまった父がわたしに、つたない言葉で声をかける。
「あんた...がんありあ(頑張りや)。」
首を頷くので精一杯だった。
言葉に出そうとすると、涙がこぼれてしまうからだ。
そう、わたしも音楽がだいすき。
父を鬱病にしてしまった、怖い側面もあるけど
それでも、わたしは音楽がだいすき。
わたしを応援してくださる、たいせつな人達と
父さん、そして自分のために
わたしは、音楽の道を地道に歩み続けていこうと思う。
父を鬱病にした奴らに、蹴りを入れてやりたいのが正直な気持ちだ。
しかし、そんなことしてたら、いいモノがうまれない。
だから、穏やかな気持ちで、スコアを書いていこうと思う。